知人が会社をたたみました。

親しくしていた台湾の知人が会社をたたみました。 13年前に独立する以前に勤めていた会社の社長に拾われたようです。 元の会社へ再び賃金労働者として戻りました。

かなり長い付き合いでしたので、彼の性格から言って経営者向きではなかったと思います。 日本にも何度か来たことがありますが、必ず従業員を同伴でやって来ていました。 つまり「カバン持ち」を連れて来ていたわけです。 一回だけですね、単独で来たのは。

会社をたたむまでにいろいろな事業に手を出しては失敗していました。 唯一うまくいったのは私が取引した電子機器の輸出くらいでしょう。 たぶんわたくし渡辺が彼にとっての最大顧客だったと思います。

最後の事業は”焼きおにぎり屋”さんでした。 新しくできた”夜市(よいち)”に出店を打診されて、日本で食べた”焼きおにぎり”を販売することを思いついたわけです。 夜市というのは台湾の屋台村のことです。 台湾の観光地には必ずといっていいくらいあるものです。 ここの夜市は観光客向けというよりは、地元住民のための夜市だったようです。

この夜市に”焼きおにぎり屋”さんを出店して、結構、当たったようです。 地元のニュースでテレビ取材もされていました。 テレビで取り上げられたって喜んで連絡をくれました。 Youtubeにニュースがアップロードされているのを見せてくれました。 今回の動画で地元テレビ局のニュース画像のキャプチャーは、このニュースから取ったものです。

夜市での露店が調子良い時に彼が話したことは、「中国から商談が来ている。中国に焼きおにぎりのフランチャイズをだす。」というものでした。 実際、彼は中国へ行きました。 商談には結びつかなかったようです。 彼のいつもの空回りが始まりました。

”夜市”の主催者側と何かあったのか、”夜市”を出て単独の露店屋台をはじめました。 ”焼きおにぎり”がウケたのは、夜市に出店してたから集客力があったに過ぎず、単独での実力ではありませんでした。 ”夜市”に出していた時ほど儲けはなかったと思います。

事務所も地下鉄駅の真上のビルに移転するなど、外部から見ても経費がかかるようなことを実行していました。 その当時、彼と電話ではなした内容では、たくさんのアルバイトの人を雇っていると、得意げに話していました。 彼は日本の大学に留学していたので日本語が喋れて、日本人と電話で会話をするところをアルバイトさん達に見せて、きっと有頂天だったことでしょう。 アルバイトの人たちも日本語を勉強したいと話しています。と、彼は語っていました。

わたくし渡辺が発注する電子機器の注文が大量のときは、彼は中国の深センに事務所を開いていました。 香港の展示会の仕事の時に彼の中国事務所を訪れました。 立派な”総経理”様用の執務室が仕切られて、数名の中国人従業員を雇っていました。 しかし程無く中国深セン事務所も撤退することとなったようです。 彼曰く「中国での情報を集めたから十分」と言っていましたが、中国での営業は全く進展しなかったのでしょう。 その後も日本の電子機器メーカーの販売代理店のような仕事もしていましたが、先日、そのURLにアクセスしたら既にドメインは失効していました。

台湾の酒造メーカーの代理店になったと連絡をくれたりもしました。 これも空振りだったのでしょう。 アルコール類、化粧品、日用品は広告宣伝費がものすごく必要です。 何のコネも伝ても無いオッサンが代理店契約しても、酒を販売できるようなものではありません。 この話も実際に代理店契約までこぎつけたかどうかは聞いていません。

わたくし渡辺から発注する電子機器の注文が減り始めると、生活のため叔父さんのフランス料理店の雇われ店長として急場をしのいでいました。 従業員も一人雇っていたので、その従業員も含めて面倒を見てもらっていたようです。 その当時から彼は営業というものを全くしない人ではないか?と思ったものです。 雇われ店長としての才能があれば少なくともそのまま叔父さんの店にやっかいになることもできたでしょうが、それも適わなかったようです。 わたくし渡辺が台湾を訪れた際に、そのフランス料理店でご馳走をしてくれました。 そのフランス料理店を宴会で使ってもらえるように数社営業に回ったと、得意げに話してくれました。 しかしお客様が増えたとしても、それは彼の実力ではなく叔父さんのフランス料理店の看板の力でしょう。 ここでも彼は自分自身の実力を勘違いしていました。 

わたくし渡辺が思うに、彼は”総経理”(社長)になりたいだけで、事業を軌道に乗せたり、営業活動をして仕事を取ってくることには全く向かない性格じゃないか?との疑問もありました。 すくなくとも経営者の感性があれば電子機器の輸出、お酒メーカーの代理店、日本の電子機器メーカーの代理店、焼きおにぎり屋さんといった脈略もない経営をつぎつぎ手を付けては失敗するということは無かったでしょう。

彼は”総経理”という肩書と、カバン持ちの従業員を従えての海外出張。 中国という外国に支店を構えて中国人スタッフを雇い、従業員とは隔離された執務室の中で仕事をする自分というものに酔っていたのかもしれません。


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